大慈寺志布志市 |
花椛雪 トップへ戻る |
PC用拡大画像 |
大慈寺から精霊船の行列が町内を練り歩き宝満寺まで・・・途中、提灯が灯ります。虚無僧の尺八の音色が染み渡ります。例年、精霊流しは宝満寺から船で流していたそうなのですが、天気予報で強い雨と雷が予想されるので今年は精霊だけを流すことになったそうです。 |
西郷隆盛、大久保利通、松方政義、東郷平八郎等明治維新の英傑の師であった大慈寺64世柏州和尚の隠居所として建てられた。柏州和尚は文久2年(1862)孝明天皇に会い、薩摩藩の尊王の意を伝え時代は討幕、明治へと進むこととなった。 幕末から明治2年にかけて薩摩はすべての寺院を焼き払ってしまったが、この書院だけは柏州和尚の功により県内では唯一残っている貴重な建物である。 |
大慈寺の歴史 (大慈寺の歴史 説明看板から引用) 大慈寺の創建は興国元年(暦応3年 1340)で、開基は南北朝時代にこの地方で南朝方の武将として活躍した志布志城主楡井頼仲、開山は玉山玄堤和尚です。 後に光明天皇より「廣慧」の宸筆を下賜されて正しくは龍興山大慈廣慧禅寺といい、文安元年(1444)十刹(京都五山に次ぐ寺格)の列に加えられています。 大慈寺は臨済宗関山派京都正法山妙心寺の末寺ですが、はじめは京都五山の東福寺に属しており、大慈寺2世剛中玄柔和尚は後に東福寺54世として本山に従寺しています。また妙心寺に転じてからも、西院・龍雲・万安・柏州の各住職が本山の妙心寺に従寺しています。 大慈寺はその盛時、寺領591石・寺域八町四方、禅門に学ぶ雲水が百名を超える地方僧俗の学問拠点として栄え、また慶長以降は琉球僧俗の日本留学所となっていました。絵図のように寺内には16の寺院僧坊が並び、末寺は藩内に70余ヶ寺もありました。 明治2年(1869)の廃仏毀釈によって大小の殿堂・仏像・什器・文書等は破壊又は焼失され一旦は廃寺となりましたが、64世柏州和尚の尽力によって明治12年(1879)寺号を復し、旧大慈寺寶池庵跡に再建され現在に至っています。 現在の大慈寺は、門前の豪壮な仁王像に迎えられて左奥の石段を上ると本堂があり、その西側の墓地には「楡井頼仲公」「柏州和尚」「琉球僧」等の墓があります。又、背後の山並み東端のカンタン峰(秋葉山)の麓には開山堂があり歴代の住職や鶴丸君の墓等もあります。 さらに廃仏前には寺内であった市街地内にも、「即心院跡」や、旧大慈寺の門前にあった小西墓地跡につくられた公園内に「愛甲喜春」「肝付兼続」「日本どん」「児玉伝左衛門」等の墓が残っており、大慈寺の700年の歴史を物語っています。 志布志市教育委員会 仁王像一 「密迹金剛立像」 (大慈寺仁王像 説明看板から引用) 鹿児島県指定有形文化財 昭和28年9月7日指定 この仁王様は口を開いた阿形相を示す像で「密迹金剛」といわれるものです。 シラス台地に覆われた南九州では、熔結凝灰岩製の石造物が数多く見られますが、中でもこの豪快で気魄あるれる大慈寺のものは、石造彫刻の仁王像として唯一、県の指定文化財となっています。 この像は、明治2年(1869)の廃仏毀釈で破棄され土中に埋もれていたものですが、明治12年(1879)の大慈寺再興に伴って土中から探り得た一体です。 対であった他の一体(吽形相の「那羅延金剛」)はどうしても探り得なかったため、同じく廃寺となった福寿山海徳寺(時衆宗)の仁王像を据えて対としたものです。 背面には「住山定岩叟 天和二壬戌(1682)歳六月十二日 石工 藤田次郎右衛門 寄進 山下弥三左衛門尉盛明」と記されています。 右側の旧海徳寺仁王像も「貞亨元甲子(1684)年九月十五日住山覚誉」と記され、作者も寄進者も同じです。 志布志市教育委員会 |
PC用拡大画像 |
花椛雪 トップへ戻る |