中世の館唐松城大仙市 |
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唐松城 (説明板から引用) 唐松とは、物部伝承によると古代神功皇后が朝鮮半島の新羅を討征し、その後、この地に遠征して韓服(唐松)神社を祀ったことからこの名があるといわれている。 唐松城は平安時代、陸奥の郡之司であった阿部貞任の弟、境講師官照の強固な城であったが康平6年(1063年)に源義家(八幡太郎義家)の攻撃にあい落城したと言い伝えられている 中世の末期には羽州、淀川、繁街道の重要な分岐点であった唐松城周辺は、檜山(能代市)並びに湊(秋田市土崎)に拠点を置く安東氏の最前線基地として、数々の凄惨を極めた戦いが繰り広げられた古戦場である。 唐松野合戦と峰の山対陣 (説明板から引用) 天正15年(1587)春、安東愛季は戸沢氏と小野寺氏の確執を知り、小野寺氏を排斥しようと三千の兵を唐松野に向けた。 しかし盟友のはずの戸沢氏は急きょ小野寺方につき、千人の兵を淀川対岸に陣取らせた。 激戦三日、終日矢玉を放った戦いは、安東軍の敗戦に終わった。 翌年五月、安東氏は名誉を回復すべく三千の兵を峰の山に向け、小野寺・戸沢の連合軍に戦いを挑んだ。永慶軍記には「両陣共に終夜かがり火をたきつづけ、山野二十里の間はさながら満点の星の如くに見え渡りぬ」と対陣の情景が記されている。数日対陣した戦いは、双方決着を見ないまま和睦して共に引き上げた。 中世の館「唐松城」 (説明板から引用) 伝説によると平安末期、陸奥の郡之司であった阿部貞任の弟、境講師官照がここに館を築き一帯を支配していたが前九年の役(康平6年1063年)で源頼義・義家の攻撃にあい落城したと伝えられる。 また、中世末期この地は、安東・戸沢・小野寺の勢力があい拮抗し、覇を競うことなるが淀川をはさんで秋田寄りの地帯は安東氏の勢力下にあったと推測されるため唐松城もある時期に於ては安東氏の最前線基地であったと考えられる。 そして天正15年(1587)には、各勢力がこの地で激突し、世に言う「唐松家合戦」がおこった。 このような言い伝えや歴史をもとにしてここに中世の館「唐松城」を建設した。 |
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