加藤清正公墓碑鶴岡市(旧櫛引町)
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加藤清正公墓碑はR112で月山を下りて庄内に入ってすぐの鶴岡市(旧櫛引町)丸岡城跡に隣接する天澤寺に覆い隠されるように本堂裏にひっそりとあります。

加藤清正公墓碑入口2007.5.23


五輪塔覆堂 加藤清正公墓碑2007.5.23


清正閣2007.5.23


金峯山天澤寺本堂2007.5.23


丸岡城跡2007.5.23


丸岡城跡・加藤清正公墓碑案内図


丸岡城跡・加藤清正公墓碑案内図(拡大)


加藤清正公墓碑説明看板


五輪塔覆堂説明板


清正閣説明看板


加藤忠廣公配流説明看板


丸岡城跡及び加藤清正公墓碑説明看板

加藤清正公墓碑説明看板 から引用
山形県指定史跡 加藤清正墓碑
 昔から、加藤忠廣公配流のとき密かに清正公の遺骨を運び、この地に葬ったという言い伝えがあり、大正時代に熊本からも発掘調査の要請があったが、時期尚早と断っていた。
 昭和24年になって漸く調査を実施することとなり、清正閣、神子石・太夫石の調査の後、右手の世代墓地中央の開基様と呼ばれていた五輪塔の下に、肥前(佐賀県)弓野焼の遺骨壺を発見した。それまでの経緯と五輪塔や1600年ごろに製作された弓野焼の壺を用いていることなど総合的にみて、清正公の墓碑と判断された。
 昭和38年、山形県指定史跡となり、後に遺骨壺とともに現在の覆堂に納められた。
櫛引町教育委員会
櫛引町観光協会
加藤清正公忠廣公遺蹟顕彰会

五輪塔覆堂説明板 から引用
五輪塔覆堂
1949年の調査時、人骨の入った古唐津の壺が出土した。
覆堂は早稲田大学田辺泰博士の設計による。
西暦2000年7月
櫛引町教育委員会

清正閣説明看板 から引用
清正閣
 加藤忠廣公と正応院様は、清正公の御遺骨を密かに捧持し、居館奥庭の太夫石の元に休め、丸岡大火の翌年に天澤寺世代墓地の五輪塔の元に安置した。この清正閣も五輪塔、神子石・太夫石とならぶ重要な史跡である。
 はじめは土饅頭の上に石碑が載っていたのみであったが、天保年間に祠を建てた。中の鉾型の碑は、熊本特産の島崎石であり熊本から運んだものである。
 昭和24年、清正公遺骨探索の調査では第一番目にこの閣の下が発掘され、その結果、地下2m 地点から清正公着用と推定される鎧が出土し、天澤寺に保存されている。尚、そばの小さな五輪塔は、密かに野に下した忠廣公の子供のものといわれている。
櫛引町教育委員会
櫛引町観光協会
加藤清正公忠廣公遺蹟顕彰会

加藤忠廣公配流説明看板 から引用
加藤忠廣公配流
 肥後(熊本)54万石の領主・加藤清正公は豊臣秀吉の重臣で、知・仁・勇の三徳を兼ね備えた名将としてあまりにも有名である。慶長16年(1611)清正公が亡くなり、その後を弱冠10歳の
忠廣公が継いだ。
 寛永9年(1632)6月、忠廣公は突然幕府から身に覚えのない嫌疑をかけられ、申し開きも許されずに、領地没収の上、庄内藩酒井氏に御預けとなり、その嫌疑の内容は曖昧なものであったらしく、忠廣公は幕府の外様大名お取り潰し政策の犠牲となったとみられている。
 申し開きのため江戸へきた忠廣公は、参府を許されず、待機していた池上の本門寺から、そのまま配流先の庄内に向かった。家族のうち忠廣公に同行を許されたのは生母の正応院様のみで、妻や子、兄弟は四散させられた。
 鶴岡に着いた一行は、丸岡に新築する居館の完成を待つため、南町の常念寺に仮住まいし、約2か月後の8月下旬にこの地に移住した。
 以来、忠廣公は許される日の来ることを期待しながら、22年後の承応2年(1653)6月、悲運の生涯を閉じた。その2年前、正応院様も他界されている。
 忠廣公を預かった酒井氏の温かい配慮によって、流罪の身とはいっても、丸岡の住民との交流をはじめ外部との往来などもかなりあったようで、それにまつわるエピソードや品物が伝わっている。
 数々の悲劇と謎につつまれた加藤家終焉の地である。
櫛引町教育委員会
櫛引町観光協会
加藤清正公忠廣公遺蹟顕彰会

丸岡城跡及び加藤清正公墓碑説明看板 から引用
山形県指定史跡 丸岡城跡及び加藤清正墓碑
 丸岡城は、鎌倉時代から天正年間まで当地方を治めた武藤氏の時代、大梵字(鶴岡)の南方、六十里越口と大鳥越口おさえの要地として、後に武藤家尾浦城主となった丸岡兵庫頭義興が在城した。武藤氏のあと上杉氏、さらに最上氏が領有したが、元和元年(1615)の一国一城令により城の楼閣は取り払われた。最上氏改易の後、元和8年(1622)酒井氏領となった。
 寛永9年(1632)、加藤清正公の嫡子・肥後五十万石の領主加藤忠廣公が幕府に領地を没収され、庄内藩酒井氏に預けられた。酒井氏は、この城跡に忠廣公と生母正応院様の居館、女中の長つぼね、家臣の長屋などを新築した。この館が丸岡大火によって消失したため、忠廣公が京都にあった館を移築し、承応2年(1653)忠廣公説逝去まで居住した。
 忠廣公没後、領地は幕府御領となった。
 城跡の広さは約2ha で、南側の一部は住宅地となり、ほかは主に畑地となっている。四方を囲む堀のうち残っていた北側部分が復元され、邸内に今も姿をとどめる奥庭の泉水(百間堀)と庭石(神子石、太夫石)がわずかに往時を偲ばせている。
 昭和38年、この「丸岡城跡」は昭和24年の発掘調査によって推断された「加藤清正墓碑」とともに山形県指定史跡となった。
櫛引町教育委員会
櫛引町観光協会
加藤清正公忠廣公遺蹟顕彰会

丸岡城跡・加藤清正公墓碑案内図 から引用
山形県指定史跡 丸岡城跡・加藤清正公墓碑案内図
 ここ丸岡は、庄内と内陸を結ぶ旧六十里越街道に対する要地であり、鎌倉時代より庄内を支配していた武藤氏の枝城がおかれていた。
 寛永9年(1632)肥後熊本五十四万石の太守加藤忠広公は、徳川幕府よりとがめを受け本領を没収され、出羽庄内藩酒井家に一万石の捨て扶持で、母、正応院とともに身柄を預けられ二十数年間、丸岡の陣屋でわびしい生涯を送った。丸岡城跡に隣接する天澤寺の本堂裏に五輪塔があり、昭和24年の発掘調査で、地中から肥後弓野窯の遺骨壺が発見された。また、境内には忠広公の家臣らの墓もある。
平成10年8月 櫛引町教育委員会
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