松ヶ岡開墾場鶴岡 |
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出羽三山神社五重塔からの帰り道、松ヶ岡開墾記念館は雛人形展が開かれていました。 土人形のお雛さまの撮影を快くOKしていただいて、ありがとうございます。 |
桜の赤川、鶴岡公園、善宝寺を巡っての帰り道、松ヶ岡開墾場はチラホラ散り始めた満開の桜並木にメジロが群れて、春を満喫しながらの散策になりました。 |
桜満開の鶴岡公園から山形市への帰り道、羽黒町の松ヶ岡開墾場へ寄道・・・松ヶ岡開墾場大蚕室は想像していたより、はるかに大きな建物で、この大蚕室を10棟も建てて・・・当時の開墾にかける情熱が伝わってきます。 鶴岡市街からすこし山の手に上がってきただけのようなのですが松ヶ岡開墾場の桜はまだ蕾で、鶴岡市街の暖かさを実感しました。(記2006) |
映画「蝉しぐれ」オープンセットは農地法の関係で100mくらい移動していましたが建物内部の見学と撮影ができるようになっていました。 |
松ヶ岡開墾記念館説明看板から引用 松ヶ岡開墾は明治5年旧庄内藩士三千人が一丸となり、徳義を本とし産業報国の至誠を天下に示そうとして創業、明治7年まで、311ヘクタールの桑園を造成。明治10年まで、大蚕室十棟を建設して養蚕事業を開始。 鶴岡に明治20年、製糸工場と、昭和10年、絹織物工場を創設した。昭和58年、先人の偉業顕彰のため、現存蚕室の一棟に、松ヶ岡開墾の資料を展示し松ヶ岡開墾記念館とした。2階には、日本全国の郷土玩具田中正臣田中正佐兄弟コレクション、約三万点を展示している。・・・ 新徴屋敷説明看板から引用 構造:石場建平屋石置屋根寄棟造 新徴屋敷とは、庄内藩江戸取締の際文久三年(1863)からその配下となった浪士組織新徴組の人達が庄内に移住してきたので、明治3年(1870)鶴岡城下大宝寺地内に藩が建てた百棟の住宅のことであります。 そのうち約30棟を明治8〜9年頃に組小屋として松ヶ岡に移築してやがて開墾士各戸の住宅としました。以来各戸ではこれに改造、増築の手を加え・・・ 松ヶ岡本陣説明看板から引用 庄内藩主となった酒井家第三代忠勝公は元和8年(1622)に入部し直ちに仮殿を建ててこれに住み、居城の拡張整備をはじめた。仮殿は高畑御殿と呼ばれていたが居城の竣工に伴い藩主はこれに移り、この御殿は子息達の住居としていた。 貞享三年(1686)その中の一棟を現在の藤島町下町に移し藩主江戸往復の際の休息所とし御茶屋と称した。 これを明治五年(1872)松ヶ岡開墾事業のはじまるにおよび現在地に移築し集会所兼事務とし、本陣と称して今日に至り・・・ |
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