上山城と武家屋敷 |
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晴れてるのですが蔵王山頂は雲に隠れて・・・風待ち・・・山頂が見え始めたので急ぎ上山城の展望台へ上ってみると早春の蔵王連峰が広がっていました。(記2007) |
上山城の沿革(看板)から引用 上山城は、室町時代の応永年間初期(1400年前後)に、羽州探題で最上氏の祖、斯波兼頼の曾孫里見満長が初めて着封、上山殿と称し虚空蔵山に山城を築いたのが初めとされ、当時は高楯城または亀ヶ岡城とも言われていた。永正11年(1514)には、伊達稙宗に攻略され、翌年和睦し返還、5年後に再び攻略されたが、天文4年(1535)満長の子孫武衛義忠が挙兵して奪還した。 同年高盾城を廃して、新たにこの地天神森に平山城をを築き、月岡城とも称した。 その後、城主は武衛氏三代、里見氏、元和8年(1622)最上家改易後、能見松平氏、蒲生氏等を経て、土岐氏二代が領した17世紀の後期には、城郭として最も整備され、白壁の城壁をめぐらし、後景には四季折々の緑に映えた上山城は小藩(二万五千石)ながら奥羽の名城と称されたと伝えられている。 しかし、元禄5年(1692)土岐氏が転封直後、幕府の命により跡形もなく破壊された。 以来、上山藩は金森氏、藤井松平氏(三万石)十代の治領下で170余年間、代々城の再建が宿願であったが、明治維新まで一部を修復するに止まり、再建されることは無かった。 周囲の堀も、明治5年に埋め立てられ、城の西側に僅かに内堀の名残を留めている。 現在の上山城は、昭和57年に旧二の丸跡に城郭風の郷土資料館として建設したものである。 上山藩武家屋敷案内図から引用 武家屋敷について 上山城(月岡城)が天文4年(1535)に築かれると、その西・北部一帯は武家屋敷となり、この仲丁通りには、藩の要職にあった家臣が居住していた。 現存している家屋は、茅葺屋根、鉤形の曲屋で、玄関と通用口とを別にする武家中門造りの建築様式であり、17世紀中頃の建造と推定され、屋敷の周りには土塀または土塁が築かれていた。 後に、藤井松平氏時代に西山の谷川から引水して造られた庭園の池は、風致を添えると共に、防火用水ともなっている。 春雨庵の由緒看板より引用 春雨庵の由緒 江戸幕府の厳しい宗教統制のなかで、元和法度(幕府の禁止令)や紫衣事件に抗議した京都大覚寺153世の沢庵禅師は、寛永6年(1629)8月この上山に流されて来ました。 当時の藩主土岐頼行は、この地に小庵を建て居住させたが、沢庵は殊の外この小庵がお気に入り、自ら『春雨庵』と命名し、花鳥風月を愛でながら配流の身を慰められたと言われています。 藩主頼行も、名僧沢庵に帰依して教導を仰ぎ、上山藩政史上顕著な治績を挙げ、領民からも名君として慕われました。 寛永9年7月、三代将軍家光により赦免された沢庵は、三年間の流刑生活を終え江戸に帰られたが、この間、禅道のほか、詩歌・風流の道、水利や築庭の設計など、京都や江戸の文化を伝え、領民のためにも広範な知識を授け、城下町の発展に貢献されました。 寛永16年(1639)4月、沢庵に帰依した将軍家光は、江戸品川に東海寺を創建し、沢庵を住職に迎え開山としました。 沢庵は、江戸にあっても上山の春雨庵で過ごした頃が忘れられず、時折、語り種になるので、正保元年(1644)に頼行は上山の春雨庵を模して、東海寺の境内に塔頭を建立し、その名も春雨庵として名付け、土岐家の菩提寺をしました。 ・・幾星霜を経て品川春雨庵が一部改造の際、一間の長押と天井板などを譲り受け、昭和30年7月この地に復元したのが現在の春雨庵であります。 正面には、沢庵の尊像(原図は吉川英治、作は初代野川陽山)と、茶人でもあった沢庵を偲び、南側に日本茶道院石山太柏設計による茶亭(望岳軒・聴雨亭)および飯田十基設計の茶庭が配されています。また、この「春雨庵跡」は、昭和28年8月31日、山形県史跡に指定されたものであります。 |
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