致道館鶴岡公園 |
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前日、ニュースで鶴岡公園の桜が満開を報じてました。早朝山形を出発、途中の赤川土手の桜はまだ蕾です。7時に鶴岡市役所着、午前中ゆっくりと鶴岡公園とその周辺を散策。 大正ロマンの建物を背景に鶴岡公園の桜が美人に見えます。すぐ近くの致道館の梅は丁度満開で桜と梅の花見になりました。(2006.4.22) |
旧致道館説明看板 から引用 この致道館は、藩校としての遺跡をよく留めている全国有数のもので、しかも、戦災を受けることもなく存することは、日本の史跡としてまことに貴重なものであるとし、昭和26年6月9日、国の指定を受けたものです。 藩校を創立したのは、庄内藩九代の藩主酒井忠徳で、士道が乱れ華美を好み横暴をきわめる弊風を刷新するのは教育にありと、大宝寺の地(現駅前通り・日吉町)に、文化二年(1805年)学問所を創設したのがはじまりです。 その後、文化13年(1816年)十代藩主酒井忠器は、政教一致をはかるため、居城に近い三の曲輪内の現在地に移し、藩の政務を処理する会所と学校とを合わせた珍しい仕組みとして整備しました。致道館の教育方針は徂徠学を本旨とし、画一的な講釈を好まず各人の能力に応じた少人数を対象とする個別的な指導法をとったために、多くの小教場を必要とし、数多くの室が設けられたのです。 明治維新により、明治6年(1873年)廃校となった後は、苗秀学校、鶴岡県庁、鶴岡警察署等に使用され、さらに、明倫学校、朝賜小学校等の校舎と変遷し、昭和40年から復元工事に着手、同47年から一般に公開されております。 なお、致道館とは、論語の一節「君子学ンデ以テ其ノ道ヲ致ス」から名づけられたものです。 鶴ヶ丘城のうつりかわり 鶴ヶ丘城の説明看板 から引用 ・鶴ヶ丘城は古くは大宝寺城とよばれ鎌倉期以来戦国期まで庄内に君臨した武藤氏の居城であった。 ・天文年間(1533年頃)兵火のため武藤氏は大山の尾浦城に居を移し当城はその枝城となった。 ・天正15年(1587年)武藤氏が滅び庄内は越後の上杉氏次いで慶長6年山形の最上義光の支配するところとなる。 ・慶長8年(1603)大宝寺城は最上義光の隠居城として修復され鶴ヶ丘城と改称する。 ・元和8年(1622)最上氏が領地没収となり、その後信州松代より酒井忠勝が入国、庄内14万石(幕末17万石)の居城として整備拡充された。 ・酒井氏は徳川幕府の譜代大名として明治4年まで約250年間庄内を治め・・・ |
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