新庄市、最上公園のアジサイ |
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新庄市の花、「あじさい」を見に最上公園へ・・・ 日当たりの良い紫陽花には遅かったようですが木立に守られたアジサイが満開でした。 |
新庄城について説明看板から引用 新庄城は、寛永2年(1925)、新庄藩初代藩主、戸沢政盛が築いた城である。創建時の新庄城は、本丸中央に3層の天守閣、3隅に隅櫓、表御門・裏御門を備え、二の丸は役所や米倉、大手門・北御門を有し、三の丸には多数の侍屋敷を区画した堂々たる近世城郭であった。 庄内藩は最上郡一円と村山郡の一部、6万石(後に6万8200石)を領した。藩主戸沢氏は元和8年(1622)から明治初年まで、11代 250年にわたり、この城を拠点として藩政を展開した。 慶応4年(1868)7月、新庄城は庄内勢に攻められ、黒煙を吐いて焼け落ちた。明治に入って、新庄城は廃され、跡地は新庄学校・勧業試験場・招魂社・郡会議事堂などの敷地として利用された。 図は郷土画家、尾形芦香(1858〜1946)が、自分の幼いころの記憶を古老の証言で確かめつつ描いたもので、幕末時代の新庄城の様子を今に伝えている。 天満神社本殿・拝殿 説明看板から引用 山形県指定有形文化財(建造物)昭和62年8月25日指定 この天満神社は、新庄藩主戸沢家の氏神として、旧領秋田仙北の角館時代から崇敬されてきました。 元和8年(1622)に、藩祖政盛公が常州(現茨城県)松岡から新庄に入部した折に共に移し、寛永5年(1628)に、新庄城本丸西南の現在地に遷座したものです。 本殿は、一間社流造り、拝殿は三間の入母屋造りで、いずれも茅葺の素材で重厚な造りであり、江戸時代の、建築様式の特徴をよく表している神社建築の一つです。 二代藩主正誠公時代の、寛文8年(1668)に社殿を再建し、さらに延宝8年(1680)には、愛児政武の息災延命を祈願して、茅屋根の葺き替えなどを行ったことが、棟札に記されています。 豪華な山車が、市内を賑々しく練り歩く現在の新庄祭りは、戸沢家の氏神である、天満宮の祭礼が始まりとされています。 |
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