上杉神社米沢市
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久しぶりの米沢市上杉神社は満開の桜、お堀を2週半しました。2005.5.1

米沢市上杉神社の桜01-2005.5.1


米沢市上杉神社の桜02-2005.5.1


米沢市上杉神社の桜03-2005.5.1


雪灯篭祭米沢市上杉神社 2006.2.12


  雪灯篭祭米沢市上杉神社 2008.2.9


上杉鷹山公銅像


なせば成る なさねば成らぬ・・・上杉鷹山公詠


上杉鷹山公 説明看板


米沢城 説明看板


上杉の紋 説明看板


上杉謙信公御堂跡 説明看板


色部長門追念碑


色部長門追念碑 説明看板

雪灯篭祭上杉神社
雪灯篭祭りの人ごみを避けて日曜日夜に米沢市の上杉神社へ出かけました。途中月明かりで遠くの山がクッキリ見えていたのですが置賜盆地に入ると雪、米沢の近くは吹雪、上杉公園に着いたのは午後9時、風はないのですが雪はさわさわと降りてきます。
カメラが濡れないように傘をさしかけていた家内の頭は真っ白、早々に車に退散、雪が小降りになってきたところで再撮影、撮影を終えての缶コーヒーの温かさ・・両手でしっかり握り充分に手を温めてから飲むことになりました。 2006.2.12

米沢ですね~~雪が降る降る、たんとた~~んと振り続け傘を差しての灯篭見物になりました。 「無料ですから、どうぞ飲んでいってくださ~~い」の声につられて頂いた甘酒は冷えた身体に美味しかった・・・ 降雪と見物人とアマチュアカメラマンの多さに翻弄されながらの撮影になりました。 2008.2.9


米沢城説明看板から引用
・・・会津黒川(若松)城を居城とした景勝は、文武両道に秀でた第一の家臣直江兼続を領国第二の要である米沢の城主とした。天下分け目の関ヶ原の戦いで豊臣方に属したため天下人徳川家康は慶長6年(1601)景勝を120万石から30万石に減封し、会津黒川(若松)城を没収した。景勝は家臣兼続の居城である米沢城に入り、松ヶ崎城を舞鶴城と改めたという、・・今日、本丸は上杉神社と松ヶ崎公園となっている・・

上杉の紋説明看板から引用
・・・上杉家の象徴である紋は「家紋」と「幕紋」の二種類でどちらも「竹に雀」の図柄で、正式な呼び名は、家紋が「竹ニ飛雀」、幕紋が「根竹ニ飛雀」です。・・・特に独眼竜の異称をもった伊達政宗生誕の地でもあり、そして伊達の紋も「竹に雀」で、それは上杉氏が越後を本拠地としていた時代、伊達氏へ贈与したものと伝えられ、・・・

上杉鷹山公説明看板から引用
・・・(上杉家十代)窮乏の淵にあった米沢藩を、卓抜な発想と大胆な政策によって再建した江戸時代随一の名君として知られる。・・・藩主となるや大検令、産業開発、藩校興譲館の創立、・・・米沢織・米沢鯉・深山和紙などの鷹山の興した産業は現在に伝承されている。・・・民主政治の原点を示した「伝国の辞」はこのとき・・・

上杉謙信公御堂跡説明看板から引用
・・・江戸時代、上杉謙信公の遺骸を安置した御堂のあった場所である。・・・謙信の遺骸は会津若松城に鄭重に移された。さらに同年、景勝が米沢30万石に厳封されるに伴い、遺骸は米沢城内に移された。慶長17年、この地、本丸東南隅の堤上に御堂を新築し、正面に謙信の遺骸を安置し・・・明治9年には謙信の遺骸を歴代藩主の眠る御廟所(歴代藩主上杉家墓所)に移した。ゆえに、神聖な御堂のあった場所、とくに遺骸の安置した霊所を記念し、柵をめぐらし記念碑を立て、現在に至る。米沢市

上杉記念館
明治29年米沢城二の丸・寺院跡に上杉茂憲伯爵邸として新築されたが、大正8年の米沢大火で類焼。現邸は大正14年5月再建されたもので、設計者は中条精一郎(作家宮本百合子の父)銅板葺の入母屋造り。庭園は東京の浜離宮に模して造られている。・・・

色部長門追念碑説明看板から引用
慶応4年戊辰(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いが戊辰戦争の口火を切る。新政府軍による会津攻略が始まり、盟友会津救援のため米沢など東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結び決起する。同年5月米沢藩は色部長門を総督として越後に出兵。・・・この戦争で、色部は新政府に敵対した米沢藩の首謀者として責任を負わされて戦後処理され、藩の危機を救った。・・・
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