山形県民の森、周辺 |
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夕方、散歩に訪れた県民の森はんのき沼はミズバショウが見ごろでした。翌朝、撮影に出かけてみるとミズバショウが輝いています。(記2009) 大平地区「雪椿まつり」の看板に誘われるように、県民の森へ出かけました。このお祭りでふるまわれるワラビ汁、おいしいですよ! (記2004) |
ユキツバキものがたり説明看板から引用 ユキツバキものがたり ここ白鷹山の、大平地区は「ユキツバキ」が自然のままの姿で生えています。 山形市と友好都市の大島町は、ツバキ(ヤブツバキ)が有名で、赤くて可憐な花とその木の大きさ(高木)は訪れた人に感動を与えてくれます。昔、山形も温暖な気候だった頃、大島と同じようにヤブツバキが群生していたと思われます。だんだん寒くなり多雪地帯にも耐えていけるよう適応(分化)して、このような低木になったとも考えられています。雪がフトンの役目となり枝や葉を保温し雪と土の間にその身を置き、じっと春を待っている姿は想像すると心打たれます。雪どけと共にしなやかな枝はおき上がり、杉の枝からもれたわずかが光をあびながら開花を迎えるのです。 開花は4月中ころから5月上旬ころまでで、一重で濃い紅色の・・・花が咲き、秋になると3センチくらいの丸くてかたい実をつけるのです。 主に日本海側の山地に生え、県内では、小国地方、米沢の西方、月山周辺から最上郡の雄勝峠にかけて咲いています。白鷹山周辺のユキツバキは分布上最も東よりになっており、蔵王連峰などの奥羽山系には咲いていないのが不思議です。 ここ大平地区から上山市へぬける高森山は「椿峠」の地名がありミズバショウと共に、春を迎える花として昔から地元の人々に親しまれているのです。 このふるさとの自然をいつまでも守り続け、そして愛でていきたいものです。 山形市観光物産課 西山形地区振興会 太平地区民 「作谷沢磨崖仏」桜地蔵説明看板から引用 「作谷沢磨崖仏」 「作谷沢磨崖仏」は、「桜地蔵」として畑谷・鈴木家で代々祀ってきたものである。畑谷・獄原間の、鵜川傍の高さ約3.2米の安山岩系の巨岩に「地蔵」等が彫られ、その上部に桜の木があったので「桜地蔵」とよばれていた。鵜川に下りると、正面左手上部に本尊の地蔵菩薩と推定される「桜地蔵」の頭部が彫られているのが見える。頭部から顎までは約39糎、顔の幅は約28糎である。その周囲に彫刻されたものの形跡があるが摩滅しており、判然としない。「地蔵三尊」として両脇侍、その他ではないかという見方もなされている。左手頂部に「獅子石像」が上流・白鷹山方面を見つめているのが分かる。 様式が類型的でない点から見てかなり古いもので、製作された年代は中世にまで遡るものと見られる。 町内において磨崖仏の存在の確認されたものはここだけである。現在、白鷹山虚空蔵尊をめぐる白鷹山信仰圏の存在とその内容が検討されている。白鷹山に登ろうとして鵜川を遡った信者がこの磨崖仏を礼拝し、近くの小滝で身を清め、山頂を目指したのではないだろうか。 山辺町教育委員会 畑谷城址説明看板から引用 畑谷城址 山形最上氏は、置賜、下長井地方に通ずる要衝の地である畑谷にその武将江口氏を配置して、置賜との境を守らせていた。江口氏は東黒森山の尾根続きの館山に、山頂を本丸として、各所に空掘りを配した山城を築き、その任に当たった。館山山頂は、標高549米で、山形城を遥かに一望でき、山麓低地との比高は、70米である。南方は急斜面で、狐越街道白鷹方面を直視し、西方は山続きとなっている。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いにあたり、上杉直江山守は、主力軍約2万をひきいて、荒砥から進撃し、山形城を目指して途中の畑谷城に迫った。9月13日江口道連(光清)は手勢を指揮して迎え撃ったが約二時の戦いで敗れて、自刃し落城した。山城の攻防戦としては、山形県下に於いて代表的なものである。 最上家との義に殉じ、不利な山間の山城で散った江口公とその一党の事蹟には特筆されるものがある。墓地の奥地には、江口公のお墓と彼の義に生きた生涯を顕彰する碑が建てられている。 山辺町教育委員会 |
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